僕は思い浮かんだタイトルを打ち込んだあと、あてもなく文字を綴っていくことが好きだ。
そうすることで、記したいことが記しきれないことによるジレンマを感じなくてよいし、素直なその時の気持ちを残しておける気がするから。
結果的に後で読み返してみると何を書きたかったのかよく分からないことも多々あるけれど、どこかに出展するわけでも、広告の収入が入って来るわけでもないので特に気にはならない。
さっき、ふと明日が来ることを楽しみにしている自分に気がついた。
明日は別に休みの日でも、特別楽しみにするようなことがあるわけでもないけれど、なんとなく明日を楽しみにしている自分に気づいた。
明日を楽しみに感じる。
一見とても普通のことのように感じるけれど、そのことはアルコールをたらふく飲んでいた頃の自分にとっては考えられないことだったと、明日を楽しみに感じたことから少し遅れて、しみじみと考えた。
未来に希望が持てない生き方。
それがアルコールと生きていく生き方。
アルコールを経った今、色々なことが変化してきているけれど、時間と言うものの考え方についても大きな変化を感じている。
これは何度か書いてきたことだけれど、アルコールを飲んでいた頃は、とにかく飲んでいる時間だけが意味のある時間だった。
ひどいときには、飲みながらも明日は何時から飲めるかを考えるような状態になっていた。
そんな状態だから、健全に明日を楽しみに思うことなどはなく、強いて言うと、明日は休みだから朝から飲める、なんていうようにとにかくアルコールを中心とした考え方に陥っていた。
けれども飲むことをやめて半年近くが経過した今、その飲酒脳に大きな変化が起こっている。
それは、とにかく時間を有効に使いたい。という思いだ。
よく断酒をするとジョギングをしたり読書をしたり、自分の時間を充実させている様子をブログなんかで目にするけれど、僕もここ最近“学ぶ”ということに対して貪欲になっている自分の存在に気づかされることがある。
裏を返すと、色々なことに無知であった自分に焦りを感じている。
世の中には自分の知らないことが山ほどあり、なぜ僕はそれらを知らないまま過ごしていたのだろうと。
そのなぜの答えはわかりきっていることだけれど、だからこそ今僕はその遅れを取り戻したいと思っている。
このことは、一見するとただの後悔のように感じるけれど、実はプラスの面も存在する。
それは知識の餓えを切実に感じているということだ。
それはまるでカラカラになった鉢植えのようで、知識という水をとても素早く吸収していく。
吸収された知識は更に鉢植えの深い所へ染み渡ることを求め、更なる知識の呼び水となる。
この思いは、おそらくアルコールに依存した経験があるからこそ感じられる思いであると僕は思っている。
そして取り返しのつかなくなる前に気がつけたことについて、あのときの自分に感謝したいと思っている。