その苦しみの理由は何ですか?
「生きづらさから解放されるには」
その事を、僕なりに同じ苦しみを抱えている人達に伝えたいと思っている。
『生きづらさから解放されるには』
その為には、まずはその抱えている生きづらさを、正しく理解する必要がある。
あえて、生きづらさを“自身の課題”として捉えるなら、明確でないと解決することが困難だから。
僕の好きな植物を例に上げる。
モンステラや、ポトス、フィカス、エバーフレッシュ、ネフロレピスにアジアンタム。
いわゆる観葉植物たち。
言葉を発することはないけれど、植物の気持ちになって手をかけてあげる程、目まぐるしい成長を見せてくれる。
艷やかな葉や可愛らしい新芽、思いも寄らない美しい花といったカタチで。
でも、時には思うような成長を見せてくれず、弱ってしまう個体がある。
そんな時、その弱っている原因を正しく理解し、手をかけてあげないと残念ながらその植物は枯れてしまう。
水、光、湿度、温度、風、弱っている原因が望んでいる量に対して多いためなのか、少ないためなのか。
それと同じ事が、生きづらいと感じる自分自身にも言えることで、何が僕をそうさせているのかを正しく理解する事が、僕の場合抜け出すためには必要なことだった。
言葉にすると当たり前のように思えるけれど、はじめは、直面する物事に折り合いを付ける事に必死だった。
だから、それを引き起こしていることに目を向けるという発想にすら至らなかった。
けれども、立ち止まって、振り返って、問いかけることが、必要なことであり、今思えば大切なことだった。
この理由は人により様々あると思う。
だから、その答えは自分に沢山問いかけ、答え、また問いかけるという繰り返しが必要になる。
仮にそれが苦しさを伴うとしても。その先の未来を輝かせるためには。
そのようにして理解した、僕が生きづらさを感じる理由は、
『傷つきたくない』
という事だった。
きっと誰も僕を傷つけようとは思っていない。
でも僕は傷つけられることを恐れている。
あの時も、あの時も。
傷つけられることを恐れて相手を傷つけていた。
あの時も、あの時も。
そうして、自分がなぜ生きづらいと感じているのかの理由を理解した先に、解決に向けた道が見えてくる。
生きづらさという思いからの解放
HSP、アダルトチルドレン、双極性障害、離人症、回避性パーソナリティ障害、パーキンソン病…
これらは、僕が僕の人生を生きづらいと感じるようになってから、もしかしたらと疑った言葉になる。
そのどれもが、はじめは存在自体も知らないものだった。
けれども、毎日押し寄せる症状を調べていくうち、僕の前に現れ、そして一時の弱々しい安堵感を僕にもたらしてくれた。
『だからこんなに辛かったのだ』
と、
『こんな思いをしているのは僕だけではないのだ』
と。
そしてその弱々しい安堵感が焦りや不安に徐々に呑み込まれていくうちに、僕はまた別の答えを探し続けた。
僕の生きづらさと僕なりに向き合う為に。
自分の心を、存在を何かから守るために。
僕は5年程前まで、毎日浴びるようにビールを飲み続けた。
20年程毎日、優勝記念のビールかけ並に沢山のビールを飲み続けた。
苦くて大人の味で、飲んでいるときは生きづらさを感じることもなく、根拠のない自信に溢れていた。
だから当時は何かを疑うこともなく、ただ仕事が終わった後のビールを生きがいに毎日を過ごしていた。
確実に身体と脳と心を破壊しながら。
けれどもある日を境に、あれ程取り憑かれていたビールを僕はピタリと止め、そして代わりに生きづらさと向き合う毎日が始まった。
もちろん、ビールを止めたことによる禁断症状が生きづらさという思考に結びついていると数え切れない程疑った。
また飲み始めればそんな考えは消え去り、また平和な日々が訪れると何度も何度も考えた。
それでも僕は、ビールを5年前から今のところ口にしていない。
それは、そうする事が何の救いにもならない事を、僕の心が訴え続けてくれたから。
僕は自分の脳で考えたことを信用せず、心の声を信じ続けた。
その代償が、日々様々な角度で押し寄せる生きづらさであり、焦燥感であり、苦しみであったりした。
けれども、今、僕はとてもすがすがしい。
つい最近までの生きづらさは、過ぎ去った台風のように、あちこちにその痕跡を残してはいるけれど、心は晴れ渡り、その晴れ間が決して双極性障害でいう躁状態ではないと確信している。
その様な気持ちの、心の変化がなぜ起きたのか?
それを言葉にする事で、今現在以前の僕のように、理由も分からず生きづらさを感じている人達に、理由を何処か自分以外のところに求め、もがき苦しんでいる人達にとって、トンネルの出口に近づくきっかけになればと思う。
今のところそれらは縺れた釣り糸の様に絡まり、解きほぐすことは困難であり、もしかすると解きほぐすことができずに諦める結果になるかもしれないけれど、僕はこの事を解きほぐす事に向き合いたいと思っている。
まんざらでもない休日の過ごし方
今日は何も予定のない休日。
猫と植物、
水槽の魚達の世話といった休日のルーティンをひと通り行い、
ソファに腰掛け、
隣でうずくまっている猫をぼんやりと眺めていた。
たっぷり寝たはずなのに、
猫は続けざまに三度大きなあくびをし、
薄目をあけてこちらを見ている。
猫を眺める僕を薄目で見つめる猫との時間。
何も予定のない休日のまんざらでもない過ごし方。
約1万年前に共存を始めた人間と猫。
寄り添いながらも、
全く違う生き方を選択したそれぞれの子孫が今、
この時代にソファで見つめ合っている。
この先1万年後、
この2種類の生物はどの様な未来を歩んでいくのだろう?
そんなことをぼんやりと考えた、
まんざらでもない休日の過ごし方。
ウンベラータ
去年、ダイソーで買ったウンベラータがすくすくと成長している。
取り立てて剪定はしていないけれど、ちょうど良い位置で脇芽が出て、すくすくと二股に成長している。
蕾のような新芽が出来て、薄皮の内側から紅色の葉が顔を出す。
その後葉は、開きながらどんどん大きく、美しい緑へと姿を変えていく。
それらの一連の流れのたびに茎は太く、背は増していく。
そうした植物の成長は、僕に人間の心の成長を連想させる。
弱い部分を受け入れて、成長したいと願うとき。
最初は不安で弱々しくて、少しの逆風で折れてしまいそうになるけれど。
そこで踏ん張り進むことで、後になって成長できた事を気づかせてくれる。
それらは繰り返していくごとに、成長の幅は大きくなり、揺るぎのないものへとなっていく。
吹っ切れたかも
何事も最悪のシナリオを想定し、何もなくても何かしらの不安材料を探し出し、それを問題察知能力が高いと勘違いし、そしていつも過度に疲弊してしまう。
そんな日常が徐々に変わってきた気がする。
理由を探すと思い浮かぶことは4つ。
1つ目が執着を手放す事
2つ目が不安を受け入れる事
3つ目が出来事を自分の成長と捉える事
そして4つ目が自分の正しさを振り返る事
上記のそれぞれは辛いとき、苦しいことがあったときに学び、インプットしてきたことだった。
これらはどれか1つだと、どこかしらに無理を生じ、結果自分を犠牲にする向きに傾いてしまう。
例えば執着を手放そうとすることで、手放した後を想像して不安に駆られたり。
例えば不安を受け入れようと思っても、それが自己に対する圧力になってしまったり。
そんな感じ。
けれど一見すると同じところをグルグル回っているように、上記の4つを繰り返し意識していると、段々それぞれが厚みを増してきて、互いを補完し合えるようになってくる。
執着を手放そうとした時に現れる不安は予測済みのことであり、その先に自己の成長があって、振り返ると、その出来事から学び経験とすることがあった。
といったように。
僕には躁鬱の気があるのでその考えが躁から来ていないとは言い切ることはできないけれど、いままでとは少し違い心穏やかにいられている。
これらの気付きを見失うことなく、穏やかに過ごして行きたい。
僕の人生はリアルなのか?
なぜ僕は生きづらさを感じるのだろう?
僕以外の人生を歩んだことがないのに、
なぜ僕の人生は生きづらいと感じるのだろう?
なぜ周りの人たちは僕に色々な事を求めてくるのだろう?
なぜ僕は周りの人に求める事が出来ないのだろう?
なぜか求められている言葉が何処か遠くの事のように思える。
なぜか近しいはずの人たちが、僕の知らない世界にいるような気がする。
僕は誰かのアバターで、その誰かは僕をほったらかして別の何かに興味を移してしまっているような気がする。
所有者不在のアバター。
僕だけが誰かのアバター。
他の人の人生を知らないのに、僕だけがおかしい気がする。
ここは夢の中で、目が覚めたらまた小学生の僕の生活に戻るんじゃないか?
そんな考えが時折頭をよぎる。
この人生が終わった後に、この人生のレビューがあって、また次の人生への挑戦が始まるような気がしている。
僕は僕の人生しか知らないから、違う人生を知っている人は教えてほしい。
リアルって、どんな事?
回避性
回避性パーソナリティ障害という言葉を知った時、なにかがストンと腑に落ちた。
あの時友人と些細なことが原因で絶交したこと
あの時前触れもなく勤めていたバイト先を辞めたこと
家族にさえ、突き放されることを恐れて本音で話ができないこと
何事も最悪のシナリオを思い描いて回避してきたこと
本当は賑やかな雰囲気がすきなのに、その場にいる自分を持て余すことを恐れて一人が好きなふりをしてきたこと
大切な人が去っていく時、理由を付けて自ら先にその場を後にしてきたこと
人間関係が、積み上がっていかないこと
思えばそんな一人の時を埋めるために、僕はアルコールに溺れたのかもしれない
アルコールを飲んでいる時だけが自分らしくいられると思いこんでいたのかもしれない
大切な人たちと、
自ら距離を取りながら、
思い通りにならないことに嫉妬し、
諦め、
切り離し、
自分は不幸だと思っていた。
いつも孤独で、
さみしくて、
だれも僕のことをわかってくれない
そう思っていた。
でも、
何処か一方で、
関係性を手放すことにやすらぎを感じていた。
手放すことが自由につながると思っていた。
そう思わずには自分を保っていられないから
“回避性パーソナリティ障害”
その言葉と意味に出会ったとき、足りなかったピースがうまった気がした。
原因は僕にあった。
孤独を作り出していたのは自分だった。
ならば自らの手で変えることができるかもしれない。
大切な人たちと笑い合ったり、
優しい言葉や、
感謝の言葉を伝えたり、
そうした、
今までしたかったことが、
出来ない原因が自分であるなら、
僕はそれらが出来る人生を送りたいから。