トンネルの先を確かめたいから。

断酒の先にある可能性を探しながら日々の想いを綴るブログ

楽しく生きたい。

楽しく生きていきたいと思った。

限りある時間、せっかくだから楽しく生きたいと思った。

そしたらふと思った。



僕はいつから大切な人たちに楽しく感じてもらえるような振る舞いをやめてしまったのだろうと。



だから楽しく生きるために、こんな僕だけれど、こんな僕なりに楽しく生きてもらえるようにしてみようと思う。

僕は何を待っているのだろう?

僕は小さな頃から最悪のシナリオを見据えて生きてきた。

ラソン大会では、一番最後になりさえしなければ良いと思いながら三十人中5着になり、テストでは70点を下回らなければ良いと思い95点を取った。



人には裏切られても仕方がないと思い、親友と呼べるような友は出来なかった。

ノストラダムスの予言が当たっても、20歳までは生きられるからと諦め、本気で挑戦して失敗することを恐れて、そこそこの挑戦しかしてこなかった。

そんな繰り返しの中、僕は何を待っているのだろう?

この霧がかかったような人生で、相変わらず傷つくことから目を背け、最悪のシナリオを思い浮かべながら、期待することを恐れているうちに、いつしか期待したくても何を期待すればよいのか分からなくなり、自問自答を繰り返している。

僕は何を待っているのだろう?

繋がっていく言葉たち

「課題の分離」
「執着を手放す」
「刺激と反応の間のスペース」
「期待しない事」

これらの言葉はどれも目にしたときに、僕にある一定の影響を与え、自分の人生の道しるべとなる想いを気づかせてくれた。

しかし少し遅れてそれらに対する逆説や矛盾点が頭を過ぎり、そしていつしか事情の中に埋もれてしまった言葉たちだった。



でもさっき、それらの言葉たちの僕なりの答えの尻尾みたいなものが頭の片隅によぎった気がして思うままに書きとめている。

その尻尾はとても素早くて目を離した隙に見失ってしまいそうだから。

自己成長をしたいと願うことは、それまで感じることのできなかったことが感じられるようになる事に繋がる。

自己成長を願う自分と相反する相手に苛立ちを感じることは相手に成長を求めるから。

相手に成長を求めるのは、期待をしているから。

期待をする事は悪いことだとは思わないから。

自己成長したいから相手にも期待する。

ここに違和感が生じる。

自己成長は自己の内面の課題であり、そこに相手への期待は介入しない。

相手がどうあろうとそれは相手次第であり、相手に依存している時点で自己成長という観点からは大きな課題となる。

結果的に、結果的に、相手が変われば、、、これも既におごりであり、僕は、僕の人生を、僕が本当に望む形で送れば良い。

その望む形がブレることなく、納得のいくものであれば良い。

僕の手で掴みたいものを掴み、僕の足で行きたいところへ行けば良い。

裸の王様が裸であることに気づいた日

自分を見つめ直し、自分と対話し、正しく有ろうと思えば思うほど、周りの言動に過敏に反応し、苛立ち、べっとりとした思いに蝕まれていく。

これを正しく有ろうとする事、自分が変わろうとすることで起こる好転反応だと言い聞かせながら、もがき、相手を見下していた。



僕は気が付かないうちに裸の王様に成っていた。

僕が素晴らしいと思って身につけたものは、ホントは何も無かった。

僕はただの裸だった。



正しさは相手に求めるものではない。



自分がどうありたいか、どうなりたいかの道筋に、相手の言動は関係ない。

自分が身につけたいものに相手のお世辞が関係ないように。

この気付きを大切にしたい。

何かが変わった

生きていくことが億劫で、どうなってしまっても構わないと思いながら、一方で人の言動に過敏に反応し、回りから何かを与えてくれるのを待っていた。

そんないびつな心のとげとげがいつの間にか消えていた。

いつもの躁鬱の躁とも違った感覚。

なぜだろう?

自分と向き合うということ。

僕がこのブログに何かを記したくなるとき、そこにはいつも共通点が存在する。

それは、自分と向き合う上で目の前にその時々の壁が存在しているということ。

今回も例外ではなく、消化しきれない壁が存在し、無意識的にブログというツールを使って気持ちの整理をしようとしていた。

自分と向き合おうと、自分の内側に進んでいこうとするとき、僕は時折まわりの言動にとても過敏に反応し、気持ちを抑えることが出来なくなる。

今回の壁がそれにあたる。

なぜ、どうして、自分と向き合おうとしていたのに、いつの間にかまわりのことが目につき、そして闇に沈んでゆく。

その闇の中で、まわりが見えないほど、真っ暗闇になったとき、不思議と光が差し込んでくる。

その光がどのようなものであるかを確かめるため、僕の自問自答がはじまる。

まわりをもっと許せばいい。

許すというのは見下している事にならないか?

上も下もなく、ただ理解する事が大切ではないか?

そもそも理解する必要はなく、ただ全てを受け入れることが、、、云々。



僕が多くの悩みに押しつぶされそうなように、まわりの人達も苦しみ、それぞれ何かを望んでいる。

その気付きが今回のブログの終着となる。

成長点


成長点を起点として、植物は新たな芽を出し大きくなる。

先に出ていた、今はもう芽とは呼べない葉の遺伝子を受け継ぎながら、より大きく、より高く成長する為に新たな芽を出していく。

迷いなく、日差しを求めて成長していく。

種類は変われど、何十億年も前からその成長を繰り返し、その時代時代に適応してきた。

そう思うと、今の僕が抱えている問題はとてもちっぽけで他愛のない事に思えてくる。

体の成長は止まったけれど僕はまだ心の中に確かに成長点を持っている。

植物も、人も猫も成長し、次の世代にバトンを渡していく。

そこに意味があるのかどうかは植物も、人も猫もわからないけれど、わからない意味を考えすぎて悩んでいるのは多分人だけ。

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