トンネルの先を確かめたいから。

断酒の先にある可能性を探しながら日々の想いを綴るブログ

いい人を演じることに疲れたことに気がついた。




ここ最近まで、僕は回りの人にとって‘いい人’であると思っていた。

相手が負担になりそうなことや、耳がいたいと思われることは口にせず、回りがやりたくないと思うようなことは、自分の手がいっぱいであっても、率先して行ってきた。



それを、僕が思う‘いい人’だと信じていたし、そんなポジションに身をおくことは当たり前であると信じていた。

でも、果たしてそれは本当だろうか?

と、最近になって自分に問いかけることが多くなってきた。



その問いかけの答えと、そういう言動を行ってきた理由が今ならわかる。

答えはわかりきっているけれど、僕がそうしてきた理由はただ単に、回りからどう思われるかを気にしていただけだった。

負担になりそうなことや、耳がいたいことをいうと回りはきっと嫌な気持ちになるだろう。

嫌な気持ちになると僕に対して面倒な感情を抱くだろう。

その面倒な感情を受け止めることは大変だし、できればそんな思いを抱かれることなく穏便に過ごしていきたい。

その憂さ晴らしはかえってビールを飲めばいい。

そんな感情から僕は‘いい人である’という楽な人生を選んできたつもりだった。

でもこれは、言い換えれば相手を信頼していないということになる。

結果、僕にはたくさんの面倒事が舞い込むことになり、そして回りのまなびや成長の機会を奪ってきた。

自分が面倒に巻き込まれたくなくて、たくさんの面倒ごとに巻き込まれるという変なスパイラルを回し続けていたことになる。

その事に気がついたとき、僕は単純にその薄情さをあたたかさに変えたいと思った。

期待をすること、助けを求めること、それらの仮定なくして、通じ会うことは決してできないし、だからこそ手をさしのべたときの行動に意味付けをすることができる。

今僕は、僕自身にとって“いい人”でありたいと思っている。
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