それぞれの人に与えれた“時間”は、平等か不平等か?
そんなことを過去のブログを読み返しながら、ふと考えてみた。
僕がこのブログを書きはじめて、一年が経った。
この一年間は、僕にとってそれまでの数年間に相当する密度を感じられた。
その濃い密度をもたらしてくれたのは、間違いなく断酒が影響している。
そんなことを考えているうちに、時間の平等、不平等ということに考えが及んだ。
そして、“少なくとも僕にとっては平等”という答えに行き着く。
酒を浴びるほど飲み、鬱々と感じながらもあっという間に過ぎ去った時間も、新しいことや気付きにたくさん出会う事ができたこの1年間も、僕にとっては平等に訪れている。
この感覚は、上手く言葉にすることが難しいけれど、今、この時を過ごしている僕という存在が何人かいて、ある自分は相変わらず酒浸りであり、ある自分は1度もアルコールを口にすることなく、全く違う今を生きていて、今、ブログを以前のようにスマホタップで書き綴っている僕がここにいて。
という感じで過去の選択によって枝分かれした今をそれぞれ生きている自分が存在している。
それらの僕にとっては、今という時間は平等に訪れる。
そしてその今という時間をどのように過ごすかで、その延長上にある自分の生き方が大きく変わってくる。
1年前までの僕が選択してきた時間の使い方を、今の僕は後悔している。
1年前の僕が選択した今の生き方を僕は気に入っている。
残念ながら過去の選択を後悔するか、気に入るかは後になってみないとわからない。
だから今、このベクトル上にいる僕にできることは、1年前の自分に感謝するということ。
<ディコンドラの双葉の間から>
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