今日は休日。
空はここ最近の薄暗く湿った雰囲気から一転して清々しく晴れ渡り、窓を開けると心地よい風を感じることができる。
特段今日しなければならない用事はなく、一人でゆっくりと何をしてすごそうかと思いを巡らせる。
そういえば、休みになったら見ようと思っていた動画があった。
先日読んだ本の続きを読もうか?
久しぶりの天気だし、車を洗って庭の延びてきた芝生を刈り込もうか?
休日の朝。
その時間は、決して大それたことはないけれど、僕にいろいろな可能性を感じさせてくれる。
この穏やかな気持ちは陽だ。
さて、昨日スリップしていたらどうなっていただろう?と考えてみる。
そもそもあんなに飲みたくなったのはなぜだろう?
今思うと飲むことにさほど魅力は感じない。
さほど、なので全く感じないわけではない。
話を戻すと、昨日仮に飲んでいたら、テレビを見ながら娘と一緒に弁当を食べた時間は存在していない。
薄暗いダイニングでスマホを眺めながら、ひたすらビールの空き缶を積み重ねていく。
もしかしたら昨日思ったように、2、3本で眠くなり、風呂にも入らす眠ってしまったかもしれない。
そしてその様子を見た娘は決してよい気持ちはしないはずだ。
朝起きると、きっと後悔の波が押し寄せるだろう。飲んでしまった先に何もないことを再認識し、そしていたたまれず1ダースのビールを買いに走り、家族が帰ってくるまでに、顔を会わせないよう、泥酔して布団に入る。
自分は不幸だと嘆きながら。
もしかするとその思いに耐えきれず、後戻りのできないことをしてしまったかも知れない。たとえなにもしなくても、その状態からまた、断酒を目指し、自己を肯定できるようになるには並外れた労力を必要とし、そしてその分仕事に対するパフォーマンスはがた落ちになる。
今日くらい飲んでもいいか。
その思いをターニングポイントとして、これだけ未来が変わってしまう。
それがアルコール依存症というものであり、僕であることを忘れてはならない。